2022年福岡国際マラソン、日本勢は最上位が7位という結果で終わりました。
ちょっと残念な結果でしたね。
今、日本マラソン界はある男の復活を待っている。
2018年10月のシカゴマラソンで2時間5分50秒という当時の日本新記録を打ち立て、2020年3月東京マラソン2020で2度目の2時間5分台となる2時間5分29秒の自己ベストで走った大迫傑選手です。
男子マラソンはアフリカ勢の独壇場。
でも大迫傑選手は唯一アフリカ勢に勝てる走りが出来るランナーだと思います。
そんな大迫傑選手は幼少期どのような環境で、どのような教えで、日本人離れした走りを習得したのか調査しました。
【幼少期-野球から陸上へ】
1991年5月23日、東京都町田市で産声をあげた大迫傑選手は両親と兄と弟がいる3兄弟の真ん中で育ちました。
傑という名前には両親の思いが込められているようですね。母は「『すぐる』という呼び名」を気に入り、父は『傑』という文字の持つ「とても優れた」というイメージにひかれたというのが由来とのことです。
とても良い名前ですよね!アスリートにぴったりの名前だと思います。
大迫選手が小学生時代に打ち込んだのは野球だったようです。地元の金井小学校に通いながら、藤の台少年野球部に所属していました。水泳も習い、スポーツの楽しさを感じるようになっていったとのこと。
野球少年が走ることにハマるきっかけとなったのは、地元のマラソン大会でした。小学生時代、地元の町田市こどもマラソン大会で優勝しました。先頭で駆け抜け、ゴールテープを切る喜びに魅了されたんでしょうね!
【陸上部のない中学校生活-両親のサポート】
走ることに魅了された大迫選手ですが、通うことになった中学校には陸上部がありませんでした。
普通ならそこで諦めてしまいそうなものですが、大迫傑選手は他校の練習に参加させてもらったり、クラブチームに入るなど自ら走ることへの道を切り開いていきました。
そんな時、両親は大迫傑選手へのサポートを全力でおこなってくれたそうです。
試合に出れるように学校へ交渉したり、クラブチームを一緒に探してくれたり、片道一時間ほどの送り迎えもしてくれたようです。
そんな両親の手厚いサポートもあり大迫選手はどんどん陸上競技にはまっていったんですね。
中々ここまでのサポートは出来ないものですよね。
そんな活動が実を結んだからかは分かりませんが、中学2年生の頃には通っている中学校に陸上部が発足し、それからは練習に没頭する陸上生活を送っていきます。
【大迫猛流メソッド】
大迫傑さんのお父さんはソフトウェアの企画開発販売をてがける会社の代表取締役の大迫猛さん。
お母さんは保育関係の仕事をされている大迫直恵さん。
お二人共走ることが趣味だそうです。
正に陸上ファミリーですよね!
大迫猛さんは息子である傑さんの幼少期に
「望む道は子が自分で決める。親はそれを応援するだけ」
という教えを以て傑さんを育てていたそうです。
正にこの教えこそが日本一のランナーを育てた「大迫猛流メソッド」
親としては、何か子どもにアドバイスしたくなりますよね。
でも子どもにとってはそれが大きなプレッシャーになることもあるんですよね。
そんなプレッシャーもなく、大迫傑選手はのびのびと楽しみながら、自由に陸上・マラソンを続けられたと話しています。
「自分で選んできたことだからこそ、自分で責任を取れる」
子供を信用することが、このような考えに繋がるんですね。
【受け継がれる想い】
このメソッドは大迫傑選手の子育てにも反映されているようです。
大迫傑選手は、2人の娘の父親でもあります。
自分が両親から教わったさまざまなことや、「大迫猛流メソッド」は現在の子育てにも生きていると話しています。
長女には体操、ピアノ、水泳などやりたいと言ったことはほとんど全てやらせるようにしているらしいですね。
選択肢はなるべく広く、「やめたい、つまらない」と言ったら、一度は頑張ってそれを乗り越えるように話し「それでもつまらなかったら、やめたらいい」と伝えるそうです。
自分たちの教えを息子が自らの子育てにも活用しているなんて両親は本当に嬉しいでしょうね!
【まとめ】
今回はマラソンで二度も日本記録を塗り替えた大迫傑選手を育て上げた両親と、そのメソッドで大きな影響を与えた父、大迫猛さんにスポットを当ててみました。
復活した大迫傑選手にもう一度日本記録を出してもらいたいですね!
勝てるレースを又見たいです!
最後までお読みいただきありがとうございました。
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